新野盆踊り

 阿南町新野にある瑞光院の開山は、享禄2年(1529)といわれ、その開山祝いに三州振草下田の人たちが来て寺の広庭で踊ってくれたのが始まりといわれる盆踊り。それまでも新盆の家の庭先で精霊を慰めるために踊られるものはあったが、輪踊りの形式になったのはこの開山祝いの後のようだ。

 かつては現在の1箇所だけで踊られたわけではなく、大村の踊り場と向かいの高札場で踊られていた。大正年間には12種類の踊りがあってそれぞれの踊りごとに輪ができたという。おのおの好きな踊りの輪を作ったようで、若い者はきわどい歌を歌って面白がったりしたようで、輪が崩れる際に誰とだれがいなくなった、などというように男女の交際の場にもなっていたという。しかし、そんな野卑な場面が良家の子女は参加させられないというような風潮になり、新しく「踊りの会」の名のもとに、踊りを改めようという兆しがあった。そんななか、柳田國男が来村し、12種類の踊りのうち、新野の特徴を残している7種類を今後踊るようにという指導があって、以来その形式を受け継いで現在にいたっている。

 かつての12種類の踊りがどういうものだったのか、また若者にとっての踊りというものがどう捉えられていたかという部分は興味深いものであるが、今はそれを語る人は少ない。

 13日に始まった踊りは16日まで毎晩踊られ、16日の晩は17日の夜明けまで踊り続けられ、最後に踊り神送りが行なわれて終わる。16日は夕方新盆の家から持ち寄られた切り子灯篭が櫓に吊るされ、午後10時ころから踊りが始まる。夜明けころになると市神様の神前で、御岳行者の先立ちで和讃が唱えられる。和讃が終わると切子灯篭を持ち、鉦と太鼓をたたきながら「ナンマイダンボ、ナンマイダンボ」と唱えて踊り神送りの行列が始まる。この時だけ踊られる「能登」といわれる踊りとなる。こり行列が通過すると「もう踊ってはいけない」とされ、踊り惜しむ若者たちが、行列の前へ行っては踊りの輪を作り、行列を妨げるようなかけ引きがある。行列はかつては大村との境まで送られたが、今は瑞光院まで送られて切子灯篭が焼かれ精霊が送られる。一同振り返ってはいけないとされ、秋歌を歌いながら帰るのだ。


 写真は平成4年8月17日の踊り神送りである。

 なお、「音の伝承」に盆踊りの録音を置いているので参照されたい。

 
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